夜の海にいこう

やくそく:加工しない

ひたる

金木犀の香りを認知した。金木犀という言葉自体は知っていたけど、今まで何が金木犀の香りかがわからなかった。フルーツみたいないいにおいだね。こうやってみんな秋を感じてたのか。もったいないことしたな。

 

 

最近、「自分の価値は自分で決める」みたいな文言をよく見かける。たいてい、強い目をした女性の写真とともに。もう10年以上前から、ナンバーワンよりオンリーワンとか歌われてきたように、だけど今その風潮はより強いものになっている。

 

「自分の価値は自分で決める」

 

自由をかたどったこの強いメッセージに、わたしが感じたのは息苦しさだった。

 

だっていきなりそんなこと言われたってできない。なんでいまさら。

 

反射的にそう思った。

 

小中高の12年間、さんざん成績や足の速さや運動神経で比べられて測られて判断されて、そんなんで自分自身で価値を決める精神性が育つと思ってるのか??

 

少なくともわたしはそんな精神育たなかった。むしろ、決められた枠の中で頑張る方が楽だった。評価基準がはっきりしてるし。他人と比べられるという痛みも、12年、いや生まれたときから受けていればまあ慣れる、というか麻痺する。

 

それに比べて、自分で自分の価値を決めるということのなんと難しく残酷なことか。そもそも自分の価値ってなんだ。そんなの一度も感じたことないし考えたことない。

枠が決められていない、評価基準が曖昧、何一つ明確じゃない。これじゃあ何をどうすればいいかわからない。枠の中で要領よく優等生をしてきたわたしにとって、他人に評価をつけてもらえることはむしろどこかに安心感があった。それに比べて、存在価値が全て自己に託されている世界はとても怖い。1番自分が自分に価値を見出せていない自信あるし。そこまで自分に自分を託せない。自分で自分を評価するのが難しいから、他人に評価をもらうために頑張ってきたのに、今さら。

 

 

他人に評価されるのはぬるい地獄だったけど、「自分で自分の価値を決める」という世界は鮮烈な地獄だ。今まで寄りかかってきたものを取り上げられて、自分の足で立つことを強要される。足裏を刺す痛みには慣れることなく、すべてが一つ一つ鮮やかに痛い。

 

 

わたしが必要としているのは、自分で価値を決めるとか自己肯定感とか自信とかそんなものじゃなくて、評価を甘んじて受け止める一種の「あきらめ」なのだと思う。

「まあいっか」「しょうがないや」

そういうふうに他者からの評価をするりと飲み下せるあきらめこそが、わたしがこの世界を生き延びるライフハックだ。

 

 

世界はゆっくりと確実に変わっている。と思う。きっともしかしたら、わたしも自分自身で価値を決めることに生きやすさを見出せる日が来るのかもしれない。そういう精神に少しずつ変わっていけるのかも。でも、まだ今はちょっときついから、わたしは適度にあきらめながら、日々を過ごそうと思う。生ぬるい地獄に身を浸しながら、鮮やかさが失われるのを待ちたい。

 

鈍い痛みに揉まれながら、明るく、健やかに、未来を夢みようと思う。

 

 

お読みいただきありがとうございました。