夜の海にいこう

やくそく:加工しない

ただ好きでいたかった

 

 

1月14日から3月17日まで、この3ヶ月間、火曜日はずっと心が落ち着かなかった。

21時半からたけると電話して、22時からドラマを観て、見終わった後また30分電話して。そのために毎週火曜は少し早めに会社に行って、なんとしてでも19時までには退勤した。火曜日はたけるのための日だった。

ドラマが終わったら、やっぱり少しは悲しくなるのだろうか、いわゆるロスというやつに少しはなるのだろうか。そんなことを考えていたけれど、少なくとも今わたしの心を満たしているのは途方もない安心感と虚脱感だ。

 


よかった。やっと終わった。

 

 

 

2019年11月、朝のTwitterチェックをしているなか、たけるが火曜10時枠のドラマをやると知った時は、布団の中で魚のようにビチビチと跳ね回って喜んだ。そして、題材がラブコメ、役どころが「ドS医師役」と知ったときには、一周回ってまな板の上で捌かれるのを待っている鮮魚のように、自らに訪れた運命を静かに受け入れた。もう世界がわたしの2020年を祝福しているとしか思えなかった。わたしの妄想じゃないかと、いつか覚めてしまうリアルな夢じゃないかと、何度も思ったけど、それは紛れもない現実で、だから絶対に生きようと思った。新しい情報が解禁されていくたび、その思いは強くなった。絶対に生きよう。1月まで絶対に生き延びよう。

小学館に勤めている大学の先輩が、ドラマ成功するといいけど、と心配していたけど、「たけるが出るから上手くいくこと間違いなしです!!!」と画面が揺れるほど強いタップでLINEを返した。

 


わたしは、ドラマが始まるのをものすごく楽しみにしていた。

 


たけるガチ恋を名乗っているからか、たけるのラブシーンがあるたび、何人かの友人から「大丈夫?」と連絡があったりするけど、わたしはたけるのラブシーンに関しては、本当に綺麗だな、としか思わない。それが彼の仕事であるということは弁えているので、「たけるキスしないで無理( ; ; )」みたいになったことはない。むしろわりと好意的にウェルカムという心持ちでいる。だから、『半分、青い』のキスシーンも、『ハードコア』のセックスシーンも、その演技の巧みさや所作の美しさに惚れ惚れはしても、ダメージを負ったりはしなかった。

 


しかし、いよいよドラマ『恋つづ』が始まると、2話目あたりから、「おや」と思い始めた。今までと、なにかちがう。 違和感は回を重ねるごとに大きくなり、それが確信に変わるまでさほど時間はかからなかった。このドラマは今までと違う。その違和感が何か考えて、ようやく一番しっくりくる言葉を見つけた。

 


端的に言えば『恋つづ』は、むちゃくちゃ豪華な「胸キュンスカッと」だった。

 


ドラマを見ていて妙に感じていた違和感や既視感すべてそれに集約された。ベタベタなセリフ、驚異的な飛距離で動く登場人物たちの心情、彼女目線のカメラワーク。あれは50分弱の「胸キュンスカッと」である。そう言語化したとき、腑におちると同時に目眩がした。わたしはようやく自分の過失に気づいた。

 

 

 

この中に「胸キュンスカッと」に彼氏や好きな人が出演していた経験を持つ人はいるだろうか。まだ経験がない人に向けて、というか自分のこの気持ちを忘れないために書き記しておくと、わりと、かなり、色んな面で絶望的な気持ちになる。

 


①「ここでキュンとさせよう」のレールに乗せられている恥ずかしさ

恋愛ドラマは、いかに視聴者を「キュン」とさせるかが肝のジャンルだから、こんなことを言ったら「じゃあ見るなよ」という話なのだが、「恋つづ」はその意図があまりにも露骨に見え透いていた。天堂先生がベッタベタにベタな台詞を言うたび、テレビの前でうずくまりながら、気恥ずかしさで震えていた。たけるにこんな台詞を言わせることを望んでしまった1月までの自分を深く恥じ、そして懺悔した。ごめん。たける、ごめん。

「恋つづ」が今までみてきた恋愛ドラマと違うところは、胸キュンシーン至上主義であるということだ。主人公の成長や医療ものといった要素は、すべて胸キュンシーンのための繋ぎに過ぎず、胸キュンシーン以外のものはかなぐり捨てられていたように感じた。もはやあれは、胸キュンハラスメントだった。「ハイ!ここで胸キュンしてください!!こういう台詞、胸キュンですよね!!ハイ!!!!」という製作者の声がたけるの後ろからガンガンと鳴り響き、そのたびにわたしは自責の念に駆られた。こんなことを望んでいたはずじゃなかった。ごめん、たけるたけるごめん。

 

 

 

②世間への恐怖感

それでも胸キュンシーンに世間の視聴者はキュンとする。放送後はTwitterのトレンドに「#恋つづ」「天堂先生」「佐藤健」が毎回並んだ。これが結構1番メンタルにきた。好きな人のことを好きな人が増えていくのが可視化される世界。たける、世間にモテすぎだよ…と毎週半泣きだった。いつしかドラマの胸キュンシーンが訪れるたび、「今世界の何人の女がたけるに落ちた…?」と切迫感と嫉妬心に駆られるようになり、そんな自分の恋心の醜さにまた落ち込んだ。

加えて、佐藤健公式LINEがバズったことにより、たけるに関するツイートや記事を見かける機会が爆発的に増えた。「国民的彼氏」といった取り上げ方をされるたびに、心は過呼吸を起こし、しばらく「佐藤健」でSNS検索するのが怖くなった。

 

 

 

③逃れられない胸キュンハラスメント

散々胸キュンシーンについて悪態をついたけど、それでも乗せられてキュンしてしまう自分が、本気の本気で嫌だった。

だけど、でも、だって、わたしの好きな人、顔も所作もものすごく綺麗で、台詞とかそこに至るまでの流れとかに対してどれだけ納得いってなくても、そんなの関係なしにすこぶる美しい。

恋つづのたけるは、今までの作品の中でも3本の指に入るくらいビジュアルが整っていて、どうしたって抗えなかった。

大好き、大好き、大好き!!!

 だからこそ、こんな露骨な消費の仕方をしたくない、と思いながら、思いきりそういう消費の仕方をしている自分にどんどん嫌悪感が増した。タチが悪すぎる。結局わたしはその程度の人間なのだ。たけるに対する気持ちに誠実さも神聖さなんてなくて、ただただ傲慢でやっかいな1ファンに過ぎないと自覚して、とても悲しくなった。

 

 

 

 


書き連ねたものを見返すと本当に惨めでしょうがない。

 


こんな見方、したくなかった。こんな屈折した感情を抱きながらこのドラマを見たくなかった。純粋にこのドラマでキュンとして、ドラマ名にハッシュタグをつけて「やば!!!来週楽しみ!!!!!」とか騒ぎたかった。どうしてこうなった。どこから間違った。

恋つづおよびそれにまつわる一連の事象は、この恋心がいかに傲慢で醜いものかということを3ヶ月かけて教えてくれた。ごめんなさい。わかりました。もういいです。本当にごめんなさい。

恋つづが終わってくれて、よかった。もうこんな思いでたけるを見なくて済む。きっともう少しして、次クールのドラマが始まるころには、またきっと穏やかにたけるを好きでいられる。そう信じたい。

 


るろうに剣心、とても楽しみにしてます。

もうすぐ来る31歳の誕生日、すごく楽しみだよ。

そのころまでには「世界で一番大好きだよ」って、てらいなく言えるくらいメンタルを回復しておきます。

 


最後に、たけると萌音ちゃん。真摯にこのドラマに向き合って、最後まで大事に作り上げてくれて、ありがとうございました。このドラマはこの2人だったからこそ成功したものだと思います。ひとまず美味しいものでも食べてゆっくり寝て休んでください。本当にお疲れさまでした。

 

 


 
 

6周年の雑記

佐藤健のことを好きになったのは地上波でやってたるろ剣で、あれはいつだっけと調べたら2013年の今日だった。わたしの恋も6周年を迎えたのかぁと少し感慨深い。

 

たけるが好きたけるが好きって言い散らかしてるから、「たけるのどこが好きなの?」とよく聞かれるけれど、わたしは6年考えてもずっとそのベストアンサーが見つけられずにいる。たけるがひとこと話してるのを見るだけで100個は好きなところを言える。もうなにをしてても、してなくても、ただ存在してくれてるだけで、ネジが一個飛んでるのかなってくらいドバドバ大好きがあふれ出るし、きっとわたしの頭はおかしいんだと思う。

 

たけるのどこが好きか」は話してたら一生が秒で終わってしまうから難しいけど、「たけるのなにが好きか」はなんとなく自分の中で答えがあって、たぶんわたしは、集約すれば「たけるがこれ以上ないベストなタイミングでわたしの人生に現れてくれたこと」にありったけの感謝と好きを捧げたいんだと思う。

 

6年前、わたしは青森に住む高校2年生だった。県内一ダサいと言われる制服を着て、たいして楽しくもない高校に通い、過干渉な母と反抗期の弟が喧嘩をしている家に帰っていた。電車がないから親の車なしではろくに遊びにも行けず、インターネットも親が帰ってくる前と寝たあとにこっそりとしか使えない。そんな窮屈な生活の中、たまたまるろ剣たけるをテレビで観た。もちろんメイちゃんの執事とかルーキーズとかで佐藤健の存在は知っていたけど「ホストみたいな顔だなー」としか思わなかったのに、るろ剣で見たたけるは全然違った。画面を越えてこちら側まで支配するような美しさに圧倒された。見終わった後も、しばらく惚けていたと思う。どんどん気になっていって、好きになって、「わたしたけると結婚するー!」って気づいたら教室で喚いていた。そんなタイミングでちょうど高校を卒業して、上京した。東京に来てからはそれはもう幸せの連続だった。毎日インターネットで佐藤健を検索できること。自分の意思で好きなときに映画館に行けてたけるを観られること。当たり前みたいなことだけど、青森で生活してたわたしにとっては、これ以上ない環境だった。幸運もいくつも重なった。初めてたけるを生で見た『バクマン。』の舞台挨拶では、まさかの最前列だったこと。名義を貸してくれた叔母に今までで1番感謝を伝えた。たまたま原作が好きでキャスト未発表のままエキストラに行った現場にたけるがいたこと。明日地球がなくなっても悔いはないと思った。その次に行ったエキストラでは隣に並べて左腕が触れて、それはなんかもうよくわからない記憶として今も処理しきれてない。ちょうど就活のときも、たけるが朝ドラに出ていたから毎朝なんとか精神を保てた。大学4年間、たけるのおかげで本当に幸せだった。

 

だけどたぶん、大学生になってからたけるに出会ったとして、わたしはここまでたけるのことを好きになっていなかっただろうなとは思う。高校時代の、あの鬱屈したぬるい地獄で、好きなものの中だけに居場所を見つけてそれだけを大事に大事にしてた中でたけるに出会えたから、わたしはあれだけたけるのことを好きになったのだろうし、上京してからの環境の変化といくつもの幸運があったからこそ、ここまでずっと毎日好きを更新していられるんだと思う。わたしがたけるを好きな気持ちは、タイミングと幸運のおかげで成り立っていて、だから、だからこそ、わたしが1番必要としてたときにわたしの人生に現れてくれたたけるが大好きだし、幸運を注がせてくれる場を作ってくれるたけるが大大大好き。こんな一瞬一瞬愛おしいなって思える存在でいてくれて、そう思える頭にしてくれて本当にありがとう!って感謝してもしたりない。頭おかしくて幸せ!

 

わたしの人生に生きててくれてありがとうってずーーーっと思ってるよ。本当にありがとう大好きだよたける

ひたる

金木犀の香りを認知した。金木犀という言葉自体は知っていたけど、今まで何が金木犀の香りかがわからなかった。フルーツみたいないいにおいだね。こうやってみんな秋を感じてたのか。もったいないことしたな。

 

 

最近、「自分の価値は自分で決める」みたいな文言をよく見かける。たいてい、強い目をした女性の写真とともに。もう10年以上前から、ナンバーワンよりオンリーワンとか歌われてきたように、だけど今その風潮はより強いものになっている。

 

「自分の価値は自分で決める」

 

自由をかたどったこの強いメッセージに、わたしが感じたのは息苦しさだった。

 

だっていきなりそんなこと言われたってできない。なんでいまさら。

 

反射的にそう思った。

 

小中高の12年間、さんざん成績や足の速さや運動神経で比べられて測られて判断されて、そんなんで自分自身で価値を決める精神性が育つと思ってるのか??

 

少なくともわたしはそんな精神育たなかった。むしろ、決められた枠の中で頑張る方が楽だった。評価基準がはっきりしてるし。他人と比べられるという痛みも、12年、いや生まれたときから受けていればまあ慣れる、というか麻痺する。

 

それに比べて、自分で自分の価値を決めるということのなんと難しく残酷なことか。そもそも自分の価値ってなんだ。そんなの一度も感じたことないし考えたことない。

枠が決められていない、評価基準が曖昧、何一つ明確じゃない。これじゃあ何をどうすればいいかわからない。枠の中で要領よく優等生をしてきたわたしにとって、他人に評価をつけてもらえることはむしろどこかに安心感があった。それに比べて、存在価値が全て自己に託されている世界はとても怖い。1番自分が自分に価値を見出せていない自信あるし。そこまで自分に自分を託せない。自分で自分を評価するのが難しいから、他人に評価をもらうために頑張ってきたのに、今さら。

 

 

他人に評価されるのはぬるい地獄だったけど、「自分で自分の価値を決める」という世界は鮮烈な地獄だ。今まで寄りかかってきたものを取り上げられて、自分の足で立つことを強要される。足裏を刺す痛みには慣れることなく、すべてが一つ一つ鮮やかに痛い。

 

 

わたしが必要としているのは、自分で価値を決めるとか自己肯定感とか自信とかそんなものじゃなくて、評価を甘んじて受け止める一種の「あきらめ」なのだと思う。

「まあいっか」「しょうがないや」

そういうふうに他者からの評価をするりと飲み下せるあきらめこそが、わたしがこの世界を生き延びるライフハックだ。

 

 

世界はゆっくりと確実に変わっている。と思う。きっともしかしたら、わたしも自分自身で価値を決めることに生きやすさを見出せる日が来るのかもしれない。そういう精神に少しずつ変わっていけるのかも。でも、まだ今はちょっときついから、わたしは適度にあきらめながら、日々を過ごそうと思う。生ぬるい地獄に身を浸しながら、鮮やかさが失われるのを待ちたい。

 

鈍い痛みに揉まれながら、明るく、健やかに、未来を夢みようと思う。

 

 

お読みいただきありがとうございました。

 

オリジナルなんてどこにもないでしょ

ストレス発散法はゲオでマンガ20冊一気借りすることです。こんにちは。

 

ブログとか初めて書くからわからないことだらけだ。なにこれどういうテンションで書けばいいの?なに書けばいいの?ていうか将来絶対黒歴史になるものをなぜ自ら作り出そうとしてるの?

 

ふしぎだなァ…

 

たぶん情緒不安定なブログになってしまうと思いますが、お付き合いいただけると嬉しいです。

 

 

あ、ところでみなさん、今日何の日かわかってますか?

 

頭の中をよーく整理して探してみたらわかるはず。

 

みつけた?

 

そう、今日は「佐藤健の誕生日」です!

 

おめでとうたける!!愛してる!!!!29歳のたけるも大好きでい続ける自信しかないよ😭 できれば、できればでいいから写真集でもDVDでも何でもいいから何か出してくれると嬉しい、絶対買います。

 

 

さてさて。

たけるの誕生日祝って、言わなきゃいけないことは言ったから、あとはだらだら気楽に書きます。

 

なにを書こうかなと迷って、結局今日あったことや思ったことを書こうというなんとも平凡な答えに落ち着きました。

 

今日いつものようにツイッターのTLを巡回していて、一つの書評を見つけました。『武道館』という朝井リョウさんが書いた本の書評です。ざっくり言うと、駆け出しグループアイドルが様々な悩みを抱えながら武道館を目指す話。もともとわたしはこの本を読んでいたのですが、読んでからかなり日数が経っていたので忘れている部分も多く、書評を読みながら「ああ、こういう場面あったなぁ」と懐かしく思い出していました。そんななか、特に印象に残った台詞がありました。

 

自ら所属するアイドルグループが行なったCDの握手会特典商法に批判が集まり、悩む主人公の愛子に、幼なじみの大地がこんな言葉をかけます。

 

「お金を払うって、自分が何を欲しがってるのか、自分が何だったら満足するのか、すげえ考えるしすげえ選ぶってことじゃん。金も払わないで、何でもある中から手に取り続けてたらさ、そりゃ、自分がどんなヤツかってわかんなくなるよ。金払ってなかったら、期待外れのモンでも、まあいいかってなっちゃうし。めっちゃ良かったモンでも、ラッキー、くらいだし。どっちも同じくらいの距離にあるっつうか」(『武道館』p.145-146より引用)

 

 

この高校生恐ろしいわ。いやほんとに恐ろしいのはこれを書いてる朝井リョウなわけだけど。

 

購入という行為は、自分を知り表す行為。

 

すっかり言い当てられてしもうたわ、、、。

 

わたし、人の本棚を見るのがめちゃくちゃ好きで、芸能人のお部屋公開とかされた時、本棚がちらっと映るとそこで一時停止してどんな本やCDやDVDが並んでいるか凝視して確認するほどなんですけど、きっとそれも、購入して棚に置くという行為に、その人がわざわざそれを選択してそこに置いている、つまりその人の意思や価値観が見えるから、わたしは人の本棚を見るのが好きなんだなって。

 

逆も然り。

 

わたしはお金を使うことで、自分がなにを好きな人間なのか、どういうことに価値基準を置いているのか、確認しているわけです。

 

だから、お金を使うと安心する。

 

わたしは自分のことを個性のない人間だと思っている。協調性があるといったら聞こえはいいけれど、つまりは主張がないし、自分がどういう人間なのか20年間生きてきたけど一向にわからない。昨日と今日で1番好きな食べものは違うし、昨日許せなかったものが今日は許せちゃったりする。そんなぐにゃぐにゃな軸の自分だけど、購入という行為はそんな軸を少しまっすぐにしてくれる気がするのです。

 

選んで、買って、わたしはこれが好きなんだって確認して、わたしは個性を装着する。

 

「これに対して好きという判断を下してるのがわたしです!」と言える。わたしにとっては、それが佐藤健であり少女マンガであり。

こう書くといかにもキャラ立ちしたい為のビジネスライクじゃんという感じがしてしまうけど、わたしは本気で好きだと思ってるし佐藤健に至っては本気で結婚を目指しているので。念のため。

 

もちろん、お金を使わないのが悪いって言ってるわけじゃない。購入することはあくまで購入する側のエゴ。ただ、無料音楽、無料マンガ、お金を使わなくても満足できちゃう世界の中で、なにも選ばないことが当たり前になってしまったら、少し虚しくないですか?という話。

 

少なくとも、わたしみたいなフラフラしてる人間にとっては、選ばないという選択をし続けたら自分はどういう人間になってしまうのか、なにが残っているのか、少し怖くもあると、そういう話です。

 

気づいたらめっちゃ長くなってた。

最後までお読みいただきありがとうございます。